また、駄文を書いてしまった。

いや、今回は本当に適当。ってか、本読む気になれず自分の体験談を大量に入れてみた。なんか、書いててブログ書いてるみたいやったし。こんなフランクなレポート初めてやわ。ま、たまにはいいか。



 恵迪寮歌である「都ぞ弥生」は北大生なら歌えなくとも一度は聞いたことがある曲である。私が初めてこの曲を聴いたのは入学式であった。長髪で羽織、袴を身に纏った応援団の大太鼓に合わせた「都ぞ弥生」は叫んでいるのか歌っているの分からないものであり苦笑してしまったのを覚えている。しかし、彼らは至って真剣であり必死であった。
 私たちの世代では「都ぞ弥生」を歌えるものは限られているだろう。しかし、この歌は多くの人の心を魅了し、この歌をきっかけに北大を目指したものも多いと聞く。私の父方の祖母(昭和4年生まれ)は私が北大に入学すると聞くと、「あぁ、都ぞ弥生の北大か。」と答えたぐらいである。祖母は石川県生まれでずっと地元に住んできた人である。北海道に縁もゆかりもない人が知っているほど優れた歌なのだろうと以前からは感じていた。
 私は「都ぞ弥生」がどのような歌だったか今回調べるまで全く覚えていなかった。しかし、改めてその歌詞を読み、曲を聴くとそこに込められた北海道の美しさが鮮やかに想起されるすばらしい内容のものであることが分かる。この曲が作られたのは明治45年で今から90年以上も昔であり、今とは北大そのもの、周辺の風景は全く違っていよう。しかし、歌の歌詞は今でも似たような風景を思い浮かべるのはそう難しくない。また、ゆっくりとした曲調で歌われる歌は北海道の景色をより引き立てているようにすら感じる。
 ところで、「都ぞ弥生」の“都”とはどこを指しているのであろうか。当時の札幌の人口は5万人程度であり、今のような道都といった様相ではなかった。「都ぞ弥生」の作曲者である横山芳介は生まれも育ちも東京で北大予科に入るため北海道に渡ってきたのである。彼してみれば華やかな都(東京)を見限り、北海道への憧れの心情を歌ったのである。作曲をした当時、横山は20歳前後であった。まだ若い少年には東京と北海道との違いは衝撃であっただろう。私ですら、実家(石川)と札幌の季節の違いには幾分衝撃を受けた。空気の冷たさ、植生している木の大きさ、季節の移り変わり。何もかもが地元とは違っている。しかしこのような違いに戸惑いながらも私は徐々に北海道のすばらしさを感じていった。横山もまたこの多感な時期に東京とは全くちがう北海道で雄大な景色、風景、厳しい自然を体感したからこそこのような作詞が出来たのであろう。
「都ぞ弥生」が出来た背景には大学内に文学的な雰囲気があったことも関係するだろう。明治45年、予科には「或る女」を白樺に連載して文壇に売り出し中であった有島武郎が英語の教師を教師をしていた。また、学生の間でも凍影社と呼ばれる文学集団があり、横山芳介もまた棟影社で活動していたのである。
横山芳介は「都ぞ弥生」を作るにあったって二ヶ月の間苦心して歌詞を考え、この歌を作りあげたのである。作詞をしている間、彼を助けたのが作曲者の赤木顕次であった。彼は音楽的な才能を多分に持っている人物であった。彼は、横山が歌詞を一行書くとそれに音を付け「これは歌いづらい」、「これはこうしたほうがよい」と逐次アドバイスをしていた。そのため、往年の横山芳介は「都ぞ弥生」は作詞と作曲が同時に行われたからこそこのような歌い易く、皆に親しみやすいものとなった。と語っている。彼らは余りにも熱中して作詞作曲にしたため学校にはほとんど行かずに、最後には留年してしまった。その熱中ぶりから、周囲の人からは「作曲作りに熱中してしまって落第してしまった。」といわれるほどであった。
校歌はひとたび歌うとその学校での出来事が蘇るものである。私も中学校の校歌は今でもよく覚えている。中学時代、私の学校のサッカー部は毎日の練習前に必ず校歌を歌ってから練習に入ることが慣例となっていた。そのため、今では中学校の校歌を口ずさむとサッカー部での苦しかった練習、友達との楽しく過ごした日々が自然と思い出される。
「都ぞ弥生」は北大生の思い出の曲に留まらず、それを聞くものに北海道にあこがれや夢、希望、大志を抱かせる曲であったのだろう。そのような曲が現在では一部の人を除いて知らないことは非常に残念である。「都ぞ弥生」を知ることは単に北大草創期の歴史を感じられるだけではない。北大を卒業した後、自分の北大時代を振り返る上で大きなきっかけとなるものであろう。
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by iigaiya | 2006-07-20 02:13 | どうでもいいがいや


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