ダラダラダラダラダラダラダラダラダラダラダラ

 何も予定がないってのはいいんもんだ。朝から洗濯、部屋の掃除。借りてきた映画を見て・・・。自由気ままな一日でした。ってか、「いま、会いに行きます」は感動やな。あれはきっと脚本書いた人がよかったんやと思う。
  
 また、しょぼいレポート書いたのでここに放置死ときます。大阪貝塚市で行われている文章を書く講座をとり挙げて、そこで”書く”ことを通した活動がどのような意味を持っているか書けってものだった。はっきりいって意味分からん。かいててますます今の学部が嫌になったわ。



    

1ヶ月前と比べて、飛躍的に理解が深まったことは、書くことが持つ意味についてである。書くためにはどのような力が必要とされ、どのようなことが書く人に起こるのか。これらを一つ一つ見ていくことにより色えんぴつで行われていた書くという行為の意味付けを行うことが出来る。
1ヶ月前の議論の中で「書くことにより自らが客体化して見える」ということが挙がった。しかし、なぜこのような客体化が生じたのかについてその時には言及されなかった。書くことから客体化が生じたプロセスを補完するために書くことがもつ特性を考えなければならなかった。
書くことの特性の一つは自分の感情や出来事を他者に理解してもらうために、言葉にそれらを置き換えなければならないという点である。情動に任せて書くのではなく、相手に理解してもらえるように論理だてて書かなければならない。自分の感情を他者に伝えるために、あたかも他人が自分の感情を表現したかのように文章レベルにまで落とすことが必要とされるのである。そのためには、感情や出来事を整理し、自分から切り離してみようとする。そのため、書くことが客体化へと繋がるのである。書くことを繰り返すことにより、自己が客体化されて認識することが出来るようになる。
 また、書くことにより自分の意見、考えをはっきりさせ、自分の存在を明確にすることは、社会の中で自分の立場を明確にするのと同時に自分とは違った社会があると表明することである。自分はこう思うと言う事は自分とは逆の違った考えを持った人を作ることに他ならない。すると、自分とは違った人の見方、考え方を自己の顕在化とともに学ぶことになる。
 自らの顕在化から他者の考え方を学ぶ一連の流れの後に現れるもの、それはその両者の矛盾、対立を解消しようとする働きであろう。地域社会、生活の中で生じている問題を再認識し、それを解決しようとする流れは地域社会や生活をよりよくしてゆくものとなり、それと同時に、自己をさらに見つめなおす力が働くのである。
 話すことでは話す相手がいて、言葉以外の手振りや表情により自分の気持ちを伝えることが出来る。一方で書くことの場合、書く時は一人であり、言葉だけで相手に自分の気持ちを伝えなければならない。そのため書く場合には論理立てて書くことが要請され、そのことにより書く前では見えてこなかった様々な気付きや発見がある。そして、それらの気付き、矛盾をもまた書くことにより解決しようとする。書くことにはこのように、自己を見つめ直し、自己を再構成する力があるものなのではないだろうか。
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by iigaiya | 2006-06-05 22:05 | どうでもいいがいや


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