死ねばいい。

 いつものことだが、バイトしながらまたまたいらないことを考えていた。今回は今までにないぐらいかなりヘビーな内容になってしまった。



 また、バイトでミスってしまった。あんなけ忙しかったらそりゃ誰だってミスするわ。そんなんで叱られてたらマジやる気でん。ってか、いっそうのこと死んだ方がいいとすら思う。
 自分が死んだところでどれだけ問題があるだろうか。まあ、親族と、少数の友達が悲しんでくれるぐらいか。それで、なにか社会が変わるわけでもない。客観的に考えれば成人男性の労働力が1人分減る。つまり、3億円(平均の生涯年収)の生産が日本としてマイナスになるってことか。でも、だからどうねんって話やよな。
 もっと主観的に考えてみるとどうだろうか。楽しいことや苦しいこと、を計算できるとしてみよう。その時、プラスの感情(楽しい、幸福)がマイナスの感情(苦しい、不幸)を上回っていれば、それは生きるに値するだろう。人生が終わった時点の総和ではプラスなんだから。金銭的で考えた微々たる生存価値よりも大きいよりどころと出来そうではないか。
 しかし、実際当たり前だか感情の計算なんてできない。できたとしても、その総和がプラスだったか、マイナスだったかなんて到底分からない。人によって感じ方が違う感情をどうして計算できようか。むしろ、大切なのは快の質なんじゃないかと。ベンサムの効用計算的考えもいいかもしれないが、やっぱり、ミルみたいに快楽の質が問題になってくるように感じる。たわいもない大量の快楽がいくら集まっても小さな質の高い快楽にはは勝てない。そう自分も思う。ミルの言う「満足した豚であるよりは、不満足な人間である方がよく、 満足した愚か者であるよりは、不満足なソクラテスである方がよい」ですね。自分が高校のころに習った記憶を辿ると、たしか、低俗な豚の満足よりもそれよりも高潔な人間の不満足の方が優れており、バカな人間の満足よりも賢明な人間の不満足の方が価値がある。そんな感じの意味だったはず(違っているかも)。とにかく、質ですよ質。高い質の幸福を見つけれはそれは最高の存在意義にもなりえるように感じる。死ぬ間際で、{ああいい人生だった」って思えることが最高の幸福だったなら、その人生は生きる価値があったのだと考えられなくもない。問題は、その最高の幸福をどう探すかが問題。
 主観的な問題だから、それは人それぞれ千差万別の答えがあるだろう。家庭を持つことや、社会的に成功することだって最高の幸福になりうると思う。でも、もっとてっとりばやく、と言っては語弊があるかもしれないけど、最高の幸福を作り出すために宗教があるのではないだろうか。南無阿弥陀仏を唱えるだけで悪人も極楽浄土に行けると説いた親鸞の話を信じるならば、南無阿弥陀仏を唱えることが最高の幸福となり生存する支えとなれる。
 日本人が自殺する人が多いのは無宗教で小さな最高の幸福すら得られない立場にあるひとが多いからかかもしれない。やりどころのないストレスと自分が生きている意味を見出せない。そんな人が自殺に走る可能性は大いにある。
 結局、自分は「死ねばいい」って思ってるかっていうとそうは思ってない。だって痛いじゃん。死ぬの。飛び降りは恐いし練炭自殺も辛そうだし。完全自殺マニュアルでは泥酔状態(アルコールを注射で体内に送り込むのがいいらしい)で一酸化炭素中毒で死ぬのが最善の方法じゃなかったかな。よく覚えてないが。ま、そんなメンドクサイこともしたくない。辛い、メンドクサイことは嫌だ。何事にも変え難い最大の苦痛を受けるなら瑣末な苦痛を甘受します。
 だから、死なない。
 
いつもながら舌足らず、言葉足らずだな。ま、いいがいやってことで。いま思ったんだか、こんなことバイト中に考えているからミスするのかもw
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by iigaiya | 2006-03-12 02:37 | 脳内宇宙遊泳


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